知識と技術だけでは手の届かない場所もある
コーヒーに限ったことでなく食べ物全般に言えることかも知れない。
知識を高め技術を磨いても美味しさがどこに在るのか分からない。しかし大凡の判断は付くだろうけど、それは経験則からが大きいと思う。経過中に必要な知識を身に付け必要な技術が磨かれていくのが経験になる。知識や技術を否定しているように聞こえるかも知れないが、そうではないので誤解のないように。
「美味しさ」という食物の成分などではない例えるなら個人的な感覚を知るには容易なことではないと思う。自分の中にある美味しさを知っていてもなかなか思い通りにいかないことだって多々あることだ。そう思う自分には美味しさは作られるものではなく、滲み出てくるようなより客観性の高いものとして考えている。あまりに個人的な考えなので参考にならないかも知れない。
「美味しい」は生き物
知識や技術では正しいものを作れるが必ずしも美味しいに結び付かないのだ。たまに食べると美味しいカップラーメンでも、毎日3食では美味しさは薄れていく。毎日食べて美味しいものと、たまに食べて美味しいものは、同じ食品や飲料でも接し方で変化していく。恐らくは気分でさえも美味しさがコントロールされてしまう。儚くともその一瞬で美味しさが決まってしまうこともあるし、条件により決まってしまうこともある。喧嘩しながらの食事はつまらないが和気藹々と食事すると楽しい。その都度の個人の気持ちに沿った美味しさがルーレットのごとく変化しているのだ。
「美味しさ」は、まるで気分や時間で色を変えていく生き物のようだ。
それを見つけるために様々なアンテナで空気の動きを察知していかなくてはならない。店内に入る扉の開け方や足音さえも表情がありヒントになる。注文に迷って見える方の内面にはどんな迷いがあるのかを引き出す言葉選び、そこに飛び込む勇気も必要になる。まるで精神論的な物言いだが人と人とのコミュニケーションに当たる箇所なので出来るなら温かな温度でありたい。
手間も暇もかかることで非合理的な探求が成すこともあり面倒なことかも知れない。マニュアルがあれば失敗は避けられるだろうけど、「美味しさ」という魅力はそれだけでは得られないだろうと思う。私がここで書いている「美味しさ」とは、まぁまぁ合格点の美味しさでなく、どちらかというと「感動」するといった驚きに近い感覚のこと。なぜならそれはとてもモノづくりのエネルギーになるからだ。