コーヒーを飲もうとハンドドリップで抽出している時に、日頃繰り返し質問されることを思い出した。
上手に淹れるにはどうしたら良いか?
確かに「どうしたら良いのか?」という問いかけはコーヒーのみならず何事でも悩ましい。
詰まるところ、この類の質問に答えを差し出すべきかとても考えてしまう。
「美味しさ」というものは、いつどこからやって来てそう感じさせてしまうのか、まるでどこからともなく舞い降りてきた幻の蝶々のような存在にも思えてしまう。それくらいミステリアスな感覚のようだ。「美味しさ」の感じ方は個人の自由で結構だと思っているし、だからこそ適切な返答に迷ってしまうのと、美味しさに制限を設けてしまうのではと懸念していることもある。
「美味しさのルール」なんてのがあれば、きっと多くの触手が動くだろうし、それこそ私個人的にも知りたいものだ。
もちろん一般的に、失敗しない程度に美味しいと思われやすいものはたくさんあることと思う。
この手の質問に関しては、色々な例え話をして答えることはあったし、これからも書くと思うのだが、正解を求め過ぎると行き詰まりを感じてしまう。コーヒーに関して言えば、コーヒーはもっともっと自由であって欲しいのだ。その時、自分が掛けられるだけの時間と手間で最大限に好みの味を引き出すのあれば、ある程度の制限を設けて追求する面白さは確かにある。
今日自分が飲むために抽出したコーヒーは、1分とちょっとの時間でドリップをしてみた。
出来上がったコーヒーは若干薄目ではあったが、その分冷めてくる内に味わいや風味の隅々まで見渡せる安心感のあるコーヒーとなった。仕事柄に隅々まで見渡せるというのは物作りをしていると安心できる。観察するには丁度良かったと思っている。
ただ、それを美味しいか、そうでないかは、私的なものになるのだろう。
どうしたら良い? どうしたら美味しく感じるか?
その答えの在り方を考えていきたい。
もしくは新しい味を求めてのことか、少々的外れ感も否めないがもっと自分のことや相手のことを知る力を身に付けたいと思った。
昨今のコーヒーも昔ながらのコーヒーも、仕事がしやすいようにセオリーが作られてきたことはあると思う。雑誌が特集して教本的にもなっているし、インターネットで膨大な情報も入手しやすくなったが、だからこそ自分をしっかりと持ち、必要なものを選べないと迷うこといなる。便利になった分、決められなくなっている副作用に苦しんでいるのかと感じてしまう。
私的な美味しさのルールは本人がよく知っているはず。
それではまた。