コーヒーの「美味しい」をイメージする
コーヒーの抽出はまるで生き物のようだ。
コーヒーの抽出方法は色々とバリエーションがあって、既にお気に入り抽出方法を見つけている方も多いと思うのだけど、一方ではどうしたらもっと美味しく淹れられるのかと腕組みしながら目を瞑って時間を過ごしているのではないかとも思う。
以前に下記のリンク先のような記事を書いたら思いがけず反響があった。
ただ、その後に改めて思うところがありモヤモヤとしていた。そして、記事を読んで美味しく抽出できた人と、やっぱりダメだったという方もいて、なるほどと思うこともしばしばあった。そこで今回は「コーヒーの美味しい抽出方法」というものの中には、何が詰まっているのかを個人的考えたことを書こうと思う。ただ今日はテクニカルなことは書かないので、その辺りを希望する方には向かない内容と思う。昨今のコロナショックと呼ばれる閉塞感の最中でコーヒーが一息つける時間になれば幸いと思う。
「美味しい」を感じる
抽出方法は沢山あるのに、困ったことに「美味しい抽出方法」となると、そういった類のものと出会っても、簡単には美味しくならない不思議に出会うことは少なくないのではないか。個人的に思うことだが「美味しい」とは厄介なもので正解が果てしなく広大なゆえ、誰にでも当てはまる感覚ではないから難解だ。これが個人的な美味しさを追求するのであれば攻め甲斐はあるが、お店で探すともなれば一苦労する。
「美味しい」は追求でもあって妥協でもある。
「美味しい」と「抽出方法」はやって来る世界が違っていて、突如として降り立った2人なのだ。「美味しい抽出方法」と並べると、どこか恭しくもありとても魅惑的な香りが吹いてくるが、これが落とし穴になっている感は否めない。一つの言葉を答えとして見ずに「美味しい」と「抽出方法」のコンツェルトとして考えても良いと思う。観客にならず指揮者にもなり、奏者として行動することで、自分の「美味しい」をきちんと探してみることと、どの[抽出方法」での組み合わせを試してみること、そしてどんなコーヒーを作りたいのかを掘り下げていくうちに、ある種の観念が生まれてくる。その結果、自分にとっての美味しいコーヒーが響き始める。
立ち止まっていても美味しいコーヒーは向こうからやって来ないのだが「コーヒーの美味しい抽出方法」というコピーは、ややもすると迷走してコーヒーは難しいと諦めてしまいかねない。ふと甘い蜜を見つけて森深くへ誘い込まれるのと似ていて、晴れて無事に森から蜜を持って帰るのは思いの外に大変なことだと思う。
例えば「当店のコーヒー豆で大体の方が美味しく感じる抽出方法」とあれば、これは非常に締まりも無く、説得力も無く、自信の無さから頼り無さが漂い胸が張り裂けそうで、無い無いの連鎖が哀れだ。が、本来は責任が持てる範囲内で言えば、それ程可笑しなことを言っていないのではないか。しかしながら心を掴み取るにはある程度デザインされていった方が好ましいところ。コピーによって興味を持って学びの時間になれば何よりで、だから「コーヒーの美味しい抽出方法」というものに嫌悪感や否定的な感じは持っていないのだが、少々手厳しいなと改めて感じてしまう。人も控えめで正直に隅を通るより、多少ぶっきらぼうで無責任で言葉少なめの感じがミステリアスで気になってしまうのかも知れない。そういう意味では洗練されていて研ぎ澄まされた存在なのだけども、ここで研ぎ澄まされるのは本当は貴方なのです、と。出されたものを評価するだけなら、それはそれで受け身のままで好きに感じたままを評すれば良いのだけど、今以上に美味しさを手にしたい方には一歩二歩と前へ進んで欲しいな。なぜなら美味しいと思う感覚はデジタルではなくアナログ的に積み重ねた時間がとても大切だと思うから。自ら創り出す中から開かれる思考もあると思う。
よく店頭やメールなどでも「美味しく抽出するにはどうすればいいのか?」や「美味しく焙煎するには…」とかの質問を受けたりするが、正直に言うと迷いが顔を出してくる。感覚と方法論が一緒くたになったまま説明すると、出した答えに矛盾を感じていつの間にか反対概念的なものになりかねないからだ。白と黒を付けなければならなくなるというのは本当に酷なことだ。着地点が具体的なほど、手応えの感触は増していくものだ。そのために、感覚と技術をフル稼働させていくのがいい。
先にも書いたが「コーヒーの美味しい抽出方法」というものに対して疑問や意見を持っている訳ではなく、よりパーソナライズされた方法であればこそと思うことであって、一つの方法論として存在するものではないということ。美味しさは自ら作ったり見つけたりできる自由な領域にあって、そのコーヒーを口にした時、ご本人の表情に現れるようなものだと、それが初めて目に映る美味しさなのかも知れないという経験則からの強い想いがあって勝手に所感を書いているに過ぎないが。そして、これをそのまま鵜呑みにしないで、どうなのかなと一緒に考えてみて欲しい願いもある。
そういう気持ちもあって、今回はテクニカルなことは一切書かないでいる。それはまた別の機会に書こうと思うので暫くお待ち頂けたら幸いに思う。
「美味しい」は人を潤したり惑わせたりする懐の深い柔軟な目に見えない生き物のようで、そういう私も美味しさを追いかけ回わしている最中だ。
それではまた。