自分の「好きと美味しい」はどこからやって来るのか?
言葉の意味だけでは然して面白味もなく、端的になってしまう。
「好きと、美味しい」はどちらも似ていて状況などによって変化していく場合だってある。ただ、どちらもシンプルで明快な言葉であるから、日常的に使う頻度は高いような気がする。だからこそ、なぜそう感じるのか、なぜそう思うのか、それはどこからやって来るのだろうとふと思った。
マンデリン ブルーリントンが新豆で入荷した。
このコーヒー豆には強く思い入れがあって、9年ほど前になるが(株)マツモトコーヒーの松本さんに声をかけて頂き、初めてブルーリントンが育つ農園を訪れた。小虫が目の前をちらちらと飛び回る藪を抜けて森の中へ進んで行くとコーヒーの木立が並んでいた。広くはないが腐葉土でフカフカの土の上をゆっくり歩きながら眺めたのを思い出す。インドネシアへ来たのも、コーヒー農園を見たのも、何もかもが初めてで森に吸い込まれてしまっていた。しかし、どうしたことか少しはコーヒーを知った気持ちになったかと思えば、そんなことは全く無くてここからが再スタートだと決め込んでしまった。それまでの知識や経験はここに置いて帰ろうと思ったのだ。
そして身軽になった。
それ以来コーヒーというものが、いつもと違って見えるのが可笑しかった。
あれもこれもと欲張り、腕を磨いて誰よりも美味しいコーヒーを作るんだという情熱は乾いて粉々に散っていったが、それまでのブルーリントンと、ここからのブルーリントンへの想いが一新された。それは物が変化したということではなくて、自分が変化したという言わば身勝手なモデルチェンジを遂げたのだろう。どうしたら美味しく焙煎できるのだろうと修練することは大切だが、もっと広くコーヒーへ焦点を向けられた上での技術の練磨がいい。その頃から美味しさを追いかけなくなっていたが、美味しさはどこから来るのかを気にし始めたのもこの頃からだ。
粘液のようにベットリと肌に張り付く夜の熱気や、ドブ川で釣り糸を垂れている2人も、ハエが真っ黒にたかってしまった食材を見た蒼白も、眩しい原色の花や人たちも、轟音を立てるスコールも、見たもの触れたもの全てがブルーリントンと結びついていき重く厚くなった。
自由であれ
何であっても慣れてくると自分の中でレシピが生まれてくる。
それは正攻法であり、実験的でありと、柔らかに構えていられるようになる。ただ、どこかで囚われていることにも気がつくと途端に踠き始める。焙煎にしても抽出にしても、もっと自由であって欲しい。それらがどんどん科学的に分析されて、数値化され指標が出来つつあればこそ、足元に藻が絡んで転んでしまわないようにしたい。多くは実績に基づいて説得力のあるものを選ぶが、それが本当に違和感が無いものなのかくらいはしっかりと自分で賞味した方が良い。
「好き」は決められる。
「美味しい」は主観と客観性で多くを教えてくれる。
物言わず咄嗟に飛び出してくる奥底の声をじっくり感じてみるのも暇つぶしにはお勧めだったりする。
そうそう、先に書いたように、出かけて行った先であらゆるモノを括り付けて太ったブルーリントンの新豆は、浅煎りにすると煌めくような酸とライムやハーブを織り込んだようなエキゾチックさがあって面白いし、深めに焙煎していくとチョコレートや、黒糖、蜂蜜、ほのかにグズベリーに似た余韻が感じられて上質を感じさせてくれる。
そのどこを感じ取ろうと思って頂けるかが、私にとっての「美味しさ」の現れになると思う。
それではまた。