福島県相馬郡飯舘村
阿武隈山系北部の高原に開けた豊かな自然に恵まれた美しい村。
2011年3月11日に起きた福島第一原子力発電所の事故による放射能漏れによって、飯館村の土地は汚染され全村避難を余儀なくされました。お金がすべてという現代社会を問い直し続け、本当の豊かさを目指して丁寧な村づくりおこなってきた飯舘村。村の先鋭的な取り組みのひとつに1989年に始まった「若妻の翼」がありました。
「農家の若い嫁に世界を体験させてあげよう。」
村にお嫁さんが来ない、若者が農業を継がない、飯館村は嫁不足と後継者不足に悩んでいました。そんな中、海外の生活を体験する旅「若妻の翼」も、ひとづくり事業として生まれました。妻が変われば村は変わる、これからは女性が村を支える時代だと村は考えたのです。しかし10日間の欧州旅行。それも農家にとっては一年中で最も忙しい秋。嫁が突然「私、欧州に行きたい!」と言い出して、村はそこら中で大騒ぎだったそうです。
「『女を不幸にして、男だけが幸せになれない』という時代認識がカギだったと思う。」『言いたいことを言い、したいことができる女性を増やすのが特効薬』と見定めて、事業に取り組んだ。」現村長の菅野典雄さんは自身のエッセイで、そのように振り返って書かれています。そうして若妻の翼の第一陣は1989年に出発しました。その後5年間で91人が欧州へ飛び立ちました。大変な時こそ次の世代へ力を入れるというのが飯館村の精神でしょうか。第一陣が飛び立ってから22年後、今は村を離れた別々の場所で「若妻の翼」たちの第二幕が始まっています。
米粉パン職人 鮎川ゆき
焼き続けること。私なりの温度でお返しがしたい。
古里の秋田に避難する途中でとうとうガソリンが尽きた。「あぁ、これからどうなっちゃうんだろう。小さなクルマ一台でとにかく村を出てきたけれどここまでかぁ」。その場所は「新庄」。新庄市は山形県の北東にある人口4万人弱の市。それまでの鮎川さんにとっては、両親の古里である秋田へ向かう通過点の場所に過ぎなかった。身動きの取れなくなった鮎川さんは、クルマから一歩外へ踏み出した。まだまだ凍れる東北の3月。しかし新庄市の人々は温かく迎え入れてくれた。そして鮎川さんは地元のNPO団体に就職。レストランで米粉パンやケーキを焼きながら、いつしか周囲の温かさが体に浸透していく。気持ちがほぐれ、気分が落ち着いていった。「偶然たどり着いただけの見ず知らずの私たちを受け入れて、親身に接してくれる。『新庄』はいい場所だなぁ」
震災直後の飯舘村から新庄に来て3年。この4月から自分のお店を持つための開店準備に忙しい。「新庄のみなさんから贈られた大きな暖かさには及ばないけど、私にできることはひとつしかない。生地をこねてパンを焼くこと。焼き続けること。私なりの温度でお返しがしたい。」パティシエとしての経験も持つ鮎川さんがつくる米粉パン。甘さの加減にも熱が入っている。
「なごみ」副店長 高橋みほり
勉強したかった。ずっと大学に行きたいと思っていた。
「あとで振り返った時にただの避難生活、日々に追われるだけの生活にはしたくなかった。その時間で何かを掴みたい、獲得したかった。今この時を、天から与えられたものと受け止めて、だから兼ねてからの思いであった大学に通おうと思ったの」みほりさんが身を置くのは福島にある大学の行政政策学類。1987年の学部創設以来一貫して、「地方の時代」「分権化の時代」のニーズに応えることができる人材の育成を目的とする。実習やフィールドワークを重ねて「コミュニティ共生モデル」を実践的に学ぶ。行政の手が入りにくい領域に細かくアプローチする。
大学には幅広い年齢の出身地も異なる、さまざまなバックグラウンドを持った学生が集まっている。1991年に起きた阪神淡路大震災の地、兵庫から来た学生。いわき市から来ている学生は、震災時、自宅が津波で流された話をしてくれた。そんな物語を交換する。悲しみが深いほどに、人は言葉や思いを直接交わし合い、支え合いながら生きているのだということを実感する。「飯舘村で書店員として10年の経験から、対面での直接の人との関係は勉強できた。それを次は大学で理論と実践の裏付けを重ねて深めていきたい。そう、ちゃんと勉強してね。これからの地域社会づくりに役立てたい。でもそれを活かせるようなそんな仕事あるかなぁ。あればいいですねぇ」
飯舘村役場 健康福祉課 保健師 齋藤愛子
つながりの回復。
「震災前は、地区で集まって健康教室を行い、訪問に行けば畑で話を聞いたりしていました。いつも3、4人集まりお茶のみ話をし、サロンのようになっている家もありました」
震災後、当たり前にあった自宅、田畑、自然、仕事、家庭、地域のつながりをなくしてしまった喪失感。住民の多くは仕事を奪われたことで、体を動かすことが少なくなった。運動不足から生活習慣病が多くみられ、慣れない避難暮らしのストレスからこころの病気になる人も増えているようだ。村民がバラバラに避難したため、村ではICTタブレットを各家庭に配布し、そのなかで、保健師がラジオ体操のモデルとなって運動の普及を図っている。
「それを見ながら運動をしてもらうことも目的ですが、健康教室に参加できない人たちにも『私たち保健師が皆さんの健康づくりを応援していますよ』というメッセージを伝えたかった。
『いつもICTタブレットを見ているよ』と言われるととても嬉しい」
「自分で歩いて、住民の話を聞き、そして保健事業につなげる。住民の顔が分かり、住民も保健師の顔が分かる。その距離感が好きなんです。これからも一人ひとりを訪ねてお話を聞きたい。その気持ちをいつまでも大切にしていきたいです」
自家焙煎珈琲 椏久里 店主 市澤美由紀
煎り、コーヒーとともに暮らす。
村から約40㎞、福島市で営業を再開した自家焙煎珈琲店「椏久里(あぐり)」。避難先への移転ではなく、新規店舗「福島店」という位置づけ。本拠地はあくまで飯舘村との思いからである。「村があっての、山やのどかな風景があってのお店だった。その場所にあるからこその価値。なによりも大事に育ててきた地域社会が丸ごと失われてしまいました」
これまで果たしてきた役割は、美味しいコーヒーの提供だけではない。村に「産直」などなかった時代に、農産物を作るだけではなく「消費者にどう届けるか」が大切だと考え、直売所を始めた。次第に、村には「峠の茶屋」が必要だと感じるようになった。
「会話を紡げる場所。村へやって来る人、村を横切る人、人々がちょっと休める場所があったらいい」両親が作った農産物を直売しながら、平成4年に椏久里を開店。以来「よいコーヒー」を追求し、サービスも徹底してきた。「私はどこへ行ってもコーヒーをいれる。おいしいパンを焼く。けれど、村の人間関係あっての椏久里。飯舘の美しい山村のなかでの椏久里。それが本当の姿なんです」
古民家を移築した店舗の「椏久里 福島店」。「凛」とした空気の中にコーヒーの香りが引き立つ。ここは格別素敵な空間だが、それ故に飯舘村の椏久里への思いが強く募る。
ノアラブ 小林希美/鴫原明沙茄
弾いているときが幸せ。
歌っていると優しい気持ちになる。
「今日はお世話になった方がたのために歌います!」仮設住宅にある集会所で「ノアラブ」のサプライズライブが開かれた。
「みんなのために、私たちにできることは何だろう。そしたら歌がいいんじゃないかって。」
「ノアラブ」は、ギターの小林希美(こばやしのぞみ)さんと、ボーカルの鴫原明沙茄(しぎはらあすか)さんによるユニット。ふたりのイニシャル「ノ」と「ア」にラブを付けて命名した。ふたりは飯舘村の幼稚園以来の親友だ。小林さんがギターを始めたきっかけは、今から2年前。高校一年生の時に観に行ったロックバンドのライブ。一瞬で触発された。
「そのバンドのメンバーが私たちと同年代だったんです。その時、『私たちもバンドを結成したい!』という思いが頭の中をよぎって。それでふたりで『ノアラブ』を結成してギターを始めました。本当はバンド編成にしたいんですけど、人数が揃わなくて。それに仮設住宅では、大きな音の出るエレキギターは弾けません。でもバンド結成への思いは今でも捨ててないんです」
卒業ライブに向けて、練習を重ねていく「ノアラブ」のふたり。「私たちはもうすぐ、高校を卒業して仕事に就きます。音楽を続けていけるといいんですけど。今度はふたりか、もしかしたらバンドで、みなさんの元にまた音を届けたいです」
手打ちうどん「ゑびす庵」店主 高橋ちよこ
初物を食べると
75日長生きするからおいで。
「山菜を煮て『初物を食べると75日長生きするからおいで』なんて近所の人をお茶飲みに誘ったものです。だから家とその周りだけを除染して、人間だけが住めても意味はないのです。自然のめぐみがもたらしてくれる旬の幸、春はふきのとう、たらの芽、わらび、ふきなどの山菜。そんな季節の味を媒介にした隣人とのたわいのない会話。それがなにより好きだから」
ゑびす庵が福島市の現在の店舗で営業を再開したのは、2011年7月。ゑびす庵が開いていることを聞いた、飯館村のお馴染みさんが訪れてくれる。
「わざわざ遠くの避難先から顔を見せてくれると、ほっとするしうれしい。私もそうですが、うちのような村の人が集まってお茶飲みができる場所が欲しいと思い、お店を開けているの」
りんご畑を見下ろす、周りに山々が望める小高い場所。ちよこさんは「飯館の景色に似ている」と、この場所を選んだ。毎朝、眼前に広がる安達太良の山々を眺めながら、お店の仕込みを始める。飯館村ではお客さんをもてなす料理として、昔から手打ちうどんを振舞っていたそうだ。「うちは代々桶屋だったんですが、父の代から手打ちうどんを出すお店を始めました。今年で創業61年になるの。これから先ねぇ、やっぱり仕事が好きなんで続けられるうちは、お店を開けていたいわね」
文:編集室 写真:田村寛維
上記の文章は、日本で最も美しい村 編集室のHPからの抜粋になります。同行取材にて撮影した写真枠を掲載しております。全文記事をご覧になる場合には、下記リンクをご参照ください。
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