持続可能なバランスを
先日撮影で長野へ行ってきた。
秋田はそろそろ冬支度の季節だが、それよりはまだ少し秋っぽさが残る感じだった。
撮影しながら今のこと、過去のこと、色々と思い返していた。
色々あったなと思う。
詰め込んだ経験は未だ外に出すことも出来ずに踠き苦しむ一方で、また新しい扉を開けようともしている。
シャッターを切る前、ファインダー内のフレームに囲まれた風景とシンクロして何かが見えてくる感じがしていた。
まるで声が聞こえてきそうな感覚で迫ってくるのだ。
それが何なのか分からないまま撮影していた。
不思議で、ちょっと怖くて、でも新鮮な感じがした。
生きていたら何かしらあるもの。
人の手で創られてきた街が、または人の手によって衰退して、または再興していくこと。現状から計り知れないアイディアやパワー感を持って動いているものだ。その一人一人がどんな人であるか、どうやって生きているのか、興味深く思う。しかし、他人に無関心であれば幸せにもなりやすいのではないだろうか。また誤解を恐れずに言えば、自分さえ良ければの考え方はその一時の幸せは訪れるのだろう。地域には様々な人が集うのだ。その地域の多様性にどんな形でも貢献していくのだとも思う。
人には役割が必要で、その役割をきちんとこなしている時には仕事は廻るのだ。
人の性格を問わず、そうなれば地域の歯車も動いていくのだろうなと考えていた。
しかし、場所だけで街は面白味が少なないもので、人は人の潤滑油としてあることも必要だ。誰かに人が集うのだ。
やっぱり人の魅力って大切なんだよ。
そういう外と内のバランスが難しいのだろうな。
今でも撮影中に何を感じていたのかは分からない。
戻ってきてから久しぶりにコーヒーを飲んで一息つきながら振り返り考えていると、そんなことを考えていた。
だからどうしたって訳ではなく、難しさってシンプルなものほど難易度高くなるのだと自分なりの独り言よ。