何を知るのかは自分次第
目の前に広がっている、もしくは迫ってくることなど、どれを拾い上げていくかで何かが決まり動いていくのだ。ご当地の味わいの蓋を開けた時に香る湯気の中に何を見つけることができるだろうか。そこに住むと決心した人の言葉にどんな温度を感じることができるだろうか。違和感の中にどれだけ飛び込んでいくことができるだろうか。
自分の思い通りに進めていたらお釣りがきてしまう。人の言う事ばかりに引っ張られていっても同様かも知れない。写真の中にどれだけバランスよく自分が投影できているかなんて計算ではなかなか難しいが対峙している時、自分との間に何かしら挟んだ時にはいつもそういう感情が込み上げてくる。撮影時にはそんな散らかった感情や思考を整頓しながら向き合うと不思議に落ち着く。人物の撮影はそんな自分を知ることができる。出来上がった写真がどうだと言わんばかりに見せられるならいいだろうが、なかなかそうはいかない。だから上手くやろうとは思わなくなった。
写真の質がどうのと言いたいのとは違う。人間の質が閉じ込められているかというベクトルの話だ。
難解な課題だが気になる人がいれば気にしていた方がいいと思う。また全く関係ない人もいると思う。それが上手いや下手だという枠の話ではない。上手いのならもっと上手くなればよく、下手ならもっと磨けば良いのだ。ただ私は何かを思った時にどこを拾い上げるのかということと、それに対して自分でいたいと思う。出張先では様々なことがある。楽しいし真剣だ。今回もとても有意義で楽しい出張だった。雨に濡れ震えながらの撮影はカッパと暖かい服装さえあれば解決できるのだが、その震える中で込上げる様々なことを噛みしめてシャッターを切る。それでもやっぱり思い通りなんていかない。
自分を信じて何かを生み出していくのは容易なことではないことを改めて再認識できた。独り言のように何かを見つけてはシャッターを切った。知らない土地で自分でいることの難しさってあるんだなって感じた。目新しくて何枚もシャッターを切ってしまえばいいのにっても思うけどね。